2015年11月8日日曜日
わたしの時間
今日は娘が昼寝もせず過ごしたので、早めに就寝してしまい、思いがけなく自分の時間ができたので、最近のこととか、思いつくままに書いてみたいと思います。
こういう時間(こどもが寝た後の時間)って、普通、夫婦の時間だったりするんだろうな。
わたしは今はとにかく一人になる時間が欲しいし、
夫はリビングで野球みながら幸せのうたたね状態だし、
そもそも今朝ちょっとケンカしたので、改めてお茶でも淹れてお話、なんて気分にもならないのでした。
いや、もしケンカなどしてなくても、カフェインフリーのお茶を二人のために淹れてお話する、なんてしてなかっただろうな。
(ここで夫のイビキがBGMになりました。)
他の家族は知らないけれど、こどもが産まれてからは、こども抜きで話すということがほとんどなくなりました。
そういう機会を作る、という努力をしたこともありません。
夫は朝早くから仕事で夜はとても疲れてるし、
わたしは専業主婦なんだけれども、一日中、家事育児って結構体力を使うものです。
体力や、忍耐とか、そう、一日のうち、一ミリたりとも、一滴たりとも「単体」になれる時間がないって、基本的にはとてもしあわせなことなのですが、
疲れます。
たまに一人で電車に乗るだけでテンションが上がると言えば、わかってくれる人はわかってくれるかな。
なので、ぽっとあいた時間なんぞ見つけようものなら、読みかけの本をめくり、ネットで調べものをし、友達にメールを送り。。。
ぽっとあいた時間でも、家事をしてしまうことのほうが多いのですが、
「いや、これは家族が居てもできるだろう!」
と、あえて自分の「ひとりになったらやりたかったこと」を優先するようにしています。
とは言っても、夫とはよく話すほうだと思います。
娘を挟んで、テレビも観ながら、今日あった話、政治の話、次の日曜日の予定、昔の話から将来の娘の話まで、「かまってほしい」と文句を言う娘の相手をしながら、お互いに話したいことを話しているので、あんまり会話不足のストレスもないです。
でもなんとなく、ふとこの娘を産んでからの二年間を振り返って、あまりにも「わたしの時間を尊重させて!」というような態度を取っていたかな、と反省のような、ただの振り返りのような。
こどもたちが大きくなって、わたしたちなんて相手をしてくれなくなったとき、どんな夫婦になっているんだろう?
お互い「楽しい人だな」「落ち着く相手だな」と思えていたらいいな、と思います。
さて、空いた時間でしたいことの一つが「スクラップブック作り」です。
高校生のころから、気に入ったファッションページや、映画の広告などを糊やマスキングテープで貼って、「自分だけの雑誌」を作るのが好きでした。
こどもが産まれてからは、1度しかしたことがありません。
スクラップブック作りで私が重視している「雑誌のストーリー性」「色のときめき感」「しっくり感」、「ただの流行じゃないもの」を、切り取ったページたちの中から厳選して切り貼っていくのには、心の栄養と充分な時間が必要になるからです。
今日、比較的最近貼ったものを眺めていたら、ふと母方の叔母のことを思い出しました。
叔母は若いころから日本にいません。
いくつかの国で仕事をしたあと、インドネシアとシンガポールを行き来しながら、仕事と子育てをしています。
日本に居たころは、今で言う雑誌編集やスタイリストをしていたようです。
その頃にはそのような名前はついていなくて、本当の裏方だったらしいです。
雑誌のページの構成をまかされると、一人でリースから、文章を考えることから、撮影まで自分でしたこともあったそうですし、スタイリストとしては、その頃の芸能界でようやく定着して来た役割だったようで、常に仕事が途切れなく、いつも人材不足で大変だったという話を聞いたことがあります。
そのころ私はとても小さくて、たまに会う叔母はいつもパリッとしている印象がありました。
会えて嬉しいんだけど、「遊んで〜!」って近寄っても、他の大人みたいに愛想良くない、みたいな。
リースなどで借りた商品を買い取って、私の母に送ってきてくれたことも何度もありました。
大学生になったころ、それらの物を母が持ってきて「これ着れる?」というので、見てみると、ビックリ。
GUCCIやイヴサンローラン、シャネルなどの靴やスーツやワンピース!
「お、お母さん、これ、めっちゃ高いやつやで!」
というと、
「そうやと思うわ。貴重品のような包装で送られてきたから。だから丁寧に保管しててん。」
とちょっと困った顔で言っていました。
どうして困った顔だったかはすぐわかりました。
叔母は小柄。
靴のサイズは22cm、スーツやワンピースも特注かと思うくらい細い!
とてもじゃないけど、母や私には着られませんでした。
もしサイズが合ったとしても、着られる器じゃない、というか。。。
あれらの宝物、まだ母は丁寧に保管していると思います。
大きくなってきた叔母の娘に返すつもりなんでしょう。
叔母が東京でそれらのものを身につけて仕事をしていた時代、私は父が死んだばかりでとても心に大きな穴があいて、自分で自分を慰める毎日でした。
今から考えるとなんてけなげと自分で思うけど(笑)、綺麗に咲いているチューリップも見て「生きてるって素晴らしい。その素晴らしさを見せてくれてありがとう」と思うようなこどもでした。
端からみると、ただの暗いこども。
実際暗かったでしょうし。
そんな、ちょっと暗い我が家のために、叔母はきっと「もう着なくなった」と言って、古典的で美しいそれらのものを送ってくれたのかもしれません。
たまに会ったとき「学校で先生に怒られる」と言っているのに、無理矢理わたしの爪にマニキュアを塗って(しかも真っ赤!)「綺麗でしょ〜、って言ってやり!」と笑っていたことも、叔母らしいなあ、と思います。
あの頃、パリっとした叔母と、私のおっとりした風の母は、正反対だなあと思っていたのですが、歳を重ねるにつれ、なんだか似た者同士というか、物理的には離れているのに、とても繋がっている印象を受けます。
姉妹って不思議で、楽しいものなのかな。
思ったより長くなったので、このへんにしたいと思います!
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